豊穣たる熟女たち
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豊饒たる熟女たちとの三年半ぶりの揃い踏み



豊饒たる熟女たちと、一人も欠けることなく揃って会食したのは、三年半前のことであった。その折は、彼女らの好きなイタリア料理を食いながら談笑したものであったが、その後、M女との連絡が取れなくなって、やむなく残り三人で遠足やら会食を楽しんでいた。このたび、長らく日本を苦しめていたコロナ騒ぎに、収束の見通しがたってきたこともあり、久しぶりに会食しようということになった。そこで小生はM女にも連絡してやろうと思って、彼女の携帯のナンバーを何度も呼んだのだが、呼んではいるのだが返答がない。それはもしかしたら、彼女の携帯に小生のナンバーが登録されていないせいかもしれぬと思い、T女から呼び出しをかけてもらったところが、運よく話が通じた。その結果、我々四人全員そろって会食できることとなった次第であった。

十一時半にJR船橋駅の構内で待ち合わせをした。T、Y両女とはすぐに会えたが、M女がなかなかやってこない。彼女の携帯に電話しても出てこない。こないだ電話で話したときには、ボケているようにも思えなかったので、まさか約束を忘れているいるわけでもあるまいとは思ったが、もしかして、ということもある。会場は予約してあるので、とりあえず小生が先に行って、時間を延ばしてもらうように頼むこととした。そうして店に向かって歩いているところ、M女から携帯電話がかかってきて、いま船橋駅についたが、出口がどこかわからないと言う。いやはや、子どもを相手にしているような気分である。

以上はお愛嬌として、我々四人は、三年半ぶりに揃って会えたことを大いに喜んだのであった。その喜びを生ビールで祝い、中華料理を何皿か注文して舌づつみを打ちながら歓談に興じた次第。まず、しばらく会っていないM女の近況について話してもらった。彼女は、亭主が入院して以来、病状が心配なあまりうつ病になってしまったそうなのだが、その亭主が昨年の10月に亡くなった。病院から危篤の連絡が入り、息子たちにも声をかけて病床に駆けつけたところ、とりあえず死ぬ様子には見えなかったので、一端家にもどったところが、その夜のうちに死んだのだそうだ。まあ、死に際には会えなかったが、その直前に会えたのだから、よしとせねばなるまい。ご亭主も、死ぬ前に家族にあえて満足していると思うよ、とM女を慰めてやった次第。

T女は、完全失業してはや二年になるが、色々と時間をつぶす工夫をしているので、退屈している暇はないそうだ。彼女の場合は、亭主が週何日か出勤しており、体がもつ間は、働き続けてもらいたいという。毎日そばでゴロゴロされるのは迷惑だからというのだ。そこで小生は、うちは女房が働きに出て亭主の小生は晴耕雨読の生活を送っていますといったところ、おたくの場合には、奥さんが亭主に付きまとわれるのを嫌がっているんですよ、私も働いていますが、そのほうが精神衛生によいからです。毎日亭主と顔を突き合わせて生きるのはつらいですもの、とY女が言った。

とにかく、M女が思っていた以上に元気な様子に見えたのがよろしい。小生などは、もう二度と会えないかもしれないと思っていた。今回は、声をかけてくれてうれしい、今後も引き続きお付き合い願います、とT女は殊勝なことをいう。彼女は今年七十七歳になるが、髪は黒々として若く見える。それを褒めてやったところが、髪は染めているんですよという。髪を染めて誰かに見てもらえるわけではないが、しかしその方が気分が若返って元気になれるのだそうだ。一方、T女のほうは、完全失業したのを契機に、髪を染めるのをやめたところ、すっかり銀髪の熟女になってしまった。同類相哀れむというわけではなかろうが、小生の白髪をしげしげと見て、なまじ黒く残すより、あなたのように真っ白になるほうが好感がもてますよとおだてるので、上のほうはこの通り真っ白ですが、下のほうはまだ黒いままですと答えたところが、M女が面白がって、うちの死んだ亭主も下のほうは真っ黒でした。ただ白いものが二・三本は見えましたが、と茶々を入れる。

小生はいま、ねじめ正一という作家の「認知の母にキッスされ」というのを読んでいるのですが、それが真に迫っていて、自分のことまで思い起こされて、とても涙なしには読めない。小生は声をたてて泣きながら読んでいますと言ったところが、ねじめ正一って聞いたことがあるわ、俳優か何かでしょうという。そちらのことは知りませんが、とにかく自分の介護経験を生々しく描いている。彼の母親は彼が六十三歳の時に認知症になったというから、おそらく八十台半ばだったのではないか。だが息子のことはよく覚えていて、母親としての自覚もある。その自覚から、息子に支配的な態度を見せるのだが、息子はまったく気にせずに、唯々諾々と母親に従っている。小生自身もそうでしたから、ねじめの介護の努力はとても他人事には思えない。

ところで、T女と小生と二人並んだら、どちらが親に見えますか。おそらく小生のほうが息子に見えると思うのですが、と言ったところ、T女は憤慨して、そんなに言うなら、あなたが私の介護をしなさいと主張するのであった。

こういうと、我々四人は他愛ない話ばかりにうち興じていたように聞こえるかもしれないが、時には真面目な事柄も話題にした。例えば、先日某日銀総裁が、庶民には物価上昇を受け入れる用意があると発言したこととか、ヨーロッパで起きている戦争のこととかだ。日銀総裁については、あの人は全く世間のことがわかっていない、第一あの顔を見るとボケているようにしか見えませんわ、と彼女らは言い、ヨーロッパの戦争については、日本が巻き込まれるようでは困りますといった。特にY女の息子の一人はいまフィンランドで暮らしているので、あの戦争は身近に感じられるのだそうだ。一方、もう一人の息子はタイで暮らしているが、タイでは全く話題にもならないそうだ。そこで小生は、日本はアメリカの属国だから、アメリカで騒ぐと日本も騒ぐのさと言った。タイはまがりなりにも独立国だから、他国の意向に振り回されないのだろうよと。

こんなわけで、三年半ぶりに揃いぶみした我々四人は、歓談に花を咲かせるあまり、白昼にかかわらず生ビールのジョッキのお代わりをし、料理も腹が膨れ上がるほど食ったのであった。



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