豊穣たる熟女たち
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豊穣たる熟女たちと会津高原を行く


日頃仲良くしている熟女たちとともに、初めて泊まり込みの旅行をした。この春先にT、Mの両女と青梅まで梅を見に行った際、今度は4人そろってどこかに泊りに行きましょうよと話し合ったことがきっかけになって、筆者が鋭意プランを練ったところ、彼女らがすっかり乗り気になったという次第なのであった。そのプランというのは、東武電車で会津高原まで行き、そこからバスに乗って桧枝岐に行き、そこの温泉にのんびり浸かった後、翌日は尾瀬沼周辺を散策し、上州側に下山して、上毛高原から新幹線に乗って帰って来ようよというものだった。

朝8時半頃、東武線の浅草駅に4人集合した。みな旅の予感に浮き浮きして楽しそうな顔をしている。売店でお昼の弁当を調達し、9時初の特急列車に乗り込んだ。この電車は終点の鬼怒川温泉で、10分遅れで浅草駅を出発する快速列車に接続するのだが、車中気兼ねなしにおしゃべりできるように、特急電車に乗ることを選んだのだった。

平日とあって、電車の中はガラガラだ。だから周囲を気にせずにおしゃべりできる。何しろ旅の醍醐味は温泉三昧とおしゃべりに如くはない。気の置けない同志が遠慮のない会話をたのしむ、ここにこそ人生究極の醍醐味ががあるといえるのである。

みんな尾瀬には来たことがあるのかい、と聞くと、来たことはあるけれど桧枝岐温泉に泊るのは初めてだという。筆者は以前桧枝岐温泉に泊ったことがあったので、その折のことを話した。とくに印象的だったのは夕食にサンショウウオを出されたことだったよというと、皆興味津々な顔つきをして、いったいどんな料理の仕方で、どんな味がしたかを知りたがった。そこで、手足を広げた姿焼きで、うらめしそうな顔つきで食うものを睨んでいたよ、味はしなかったような気がするな、と答えると、3人そろって拍子抜けのような表情をしたが、別にいやがってるようでもなかったから、自分たちにも出されればきっと食べたことだろうと思う。

特急電車は11時頃鬼怒川温泉駅に到着した。ここで乗り継ぎ列車を待つ間に弁当を食べようということになり、筆者一人で改札を出てビールを調達した。500ミリ入りのアルミ缶だ。戻ってくるとT女が筆者の手元に目をやり、「何よ、自分の分だけ買って来て」といって、口をとんがらせた。「そんなこといったって、さっき何か欲しいかと聞いたときに、何もいらないと言ったじゃないか」と抗弁したが、T女は口をとんがらせたまま、自分とY女の分を買いに出て行った。

ホームのベンチに尻を並べて、持参した弁当を広げる。Y女が手作りの糠漬けを配ってくれる。それを魚にして飲むビールが最高にうまい。

そのうち列車がやってきた。快速列車らしいが、行先表示には新藤原とある。筆者はそれに惑わされて、弁当を食べ続けていたが、中の客が下り終る頃になって「この列車は会津田島行です」とアナウンスがあった。筆者はびっくり仰天して、そこいらにある荷物をわしづかみにし、大慌てで車内に乗り込んだ。それにつられる形で熟女たちも大慌てで車内に乗り込む。その様子を駅員が呆然として見ている。まさに危機一髪のところだった。こいつに乗り遅れると、当分の間待たされるはめに陥るのだ。

列車の中で、熟女たちは大の不機嫌だ。無理もない。のんびり気分で弁当を食べているところを、慌ただしく急き立てられたわけだから

「急に乗ると言われても困るんだから、おかげでお弁当を食べ散らかしたままで残してきちゃったじゃないの、すんでのところで大事なものまで置いてくるところだったわ、どういうつもりなの」と筆者を責めることしきりである。責められて仕方がないところだが、筆者とても無闇やたらに判断を間違えたわけではない、列車の行先表示が間違っていたのが悪いのだ、としきりに言い訳をした次第だ。熟女たちの腹はなかなか収まらない様子だったが、降りるときには前もっていってくださいね、と口をそろえて一言述べた後は何も言わなかった。

会津高原駅で下車し、尾瀬沼山峠行のバスに乗る。バスは会津高原の長閑な風景の中をガタピシャと音をさせながら走っていく。音ばかりか揺れもひどいので、乗り物に弱い筆者などは気分が悪くなるのを感じる。

2時過ぎに桧枝岐村に着いた。村のたたずまいは10年ちょっと前に来た時と殆ど変っていない。狭い街道沿いに集落があり、集落の中心に村役場がある。村役場の先には6体の地蔵が、赤いべべと頭巾を着せられて並んでいる。また道端には沢山の墓地があるが、墓石に刻まれた姓氏は星、平野、橘の三つしかない。

所々水を溜める石造りのプールがあり、そこに山からの湧水が流れ込んでいる。プールの中にはニジマスが泳いでいるのもある。もしかしたら、旅館が食材用に養殖しているのかもしれない。

資料館を覗いた後で、歌舞伎の舞台を見物した。この村には徳川時代から農民歌舞伎が行われていて、春の田植時と夏のお盆の時節に、村人自ら歌舞伎狂言を演じるのだそうだ。

三時近くに旅館に身を投じた。ますやといって、街道沿いに広がった集落のはずれ近くに位置していた。前回泊ったかぎやからは、少し先にいったところだ。用意された部屋は二つ、塾女たちのための8畳間と、男子たる筆者のための6畳間だ。その6畳間に一人身を落ち着けると、自分の手でお茶を入れて飲んだ。旅の疲れで喉が渇き、すこぶるうまく感じられた。





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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012
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