豊穣たる熟女たち
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豊穣たる熟女たちと死の準備を語る



古い街並みが尽きるあたりの連雀という交差点でタクシーをつかまえ、川越温泉に向かった。この日の散策では時間の余裕があらかじめ見込まれたので、日帰り温泉施設で旅の疲れを癒そうという計画があったのだ。この温泉は、ネットで見つけたのだが、風呂の種類も多くて、なかなかよさそうな雰囲気だったので、いくつかある同種の施設のなかから選んだ次第なのだった。

施設は、川越郊外の畑の中にあった。入浴料は大人一人当たり900円である。ところがT女は入浴しないという。何故かと聞いたら、ここ数日ぎっくり腰に苦しんでいるからだという。ぎっくり腰は、風呂に入って体を暖めるのがまずいそうなのだ。そのT女には、入浴さえしなければ、一切の料金が必要ないというので、二人分の料金を払ったうえで、三人で入ったのであった。

集合場所を定めてから、それぞれ目的の行動に移った。小生は男湯に、Y女は女湯に、T女は施設内の徘徊に、といった具合に。男湯は、七つの浴槽からなっており、それぞれに七福神の名が付されていた。小生はそのうち、内湯のかけ流し湯と、露天のかけ流し湯につかってみた。このほかサウナ室もあったが、高血圧気味の小生には禁断である。もっともこの日の小生は異常に低い血圧だった。浴後施設内の血圧計で測ったら、上が88しかない。一方脈拍は120以上あった。これはおそらく目下苦しんでいる風邪のせいだと思うと、熟女たちに話したら、それは風邪のせいというより、湯に長くつかったせいだわ、そんなあなたの行動はとても悲壮に見えるわ、と同情された。

入浴後、集合場所の休憩室に赴いたら、T女とM女が並んで横たわっていた。ヤアと挨拶したあと、彼女らの脇でしばらく転寝をした。風邪のせいもあり、横になった途端に寝てしまった。ややしてT女から起こされる。時間制限があるのじゃないのと聞くから、いや時間に制限はないよと答えて、いましばらく眠った。

食堂の前で、ヨーグルトを飲みながら歓談。T女のスマホを起動させて、昔小生が水彩で描いた川越の風景とか、先日淡路島で撮影した猿たちの動画を披露し、かれらとの出会いがいかに楽しかったか、話してきかせてやった。彼女らは小生の話を聞きながら、小生が話す猿のことより、猿のことを話す小生のほうが珍しい生き物のように感じているように見えた。

電話でタクシーを呼び寄せ、川越駅に向かった。そこから往路同様JR線を乗り継ぎ,七時近くに秋葉原駅で下りた。いつか熟女たちと入った車力という店に行くと、支度中とある。支度中にしては時間がかかりすぎるなと思っているところ、奥から店員が出て来て、本日は平常営業をしないのだと言う。おそらく貸し切りなのだろう。そこで数件先にある晩葡という飲み屋に入った。

土曜日にかかわらず、店内は大勢の客でごった返している。みなラフな格好なので、おそらく近所に住んでいる人々なのだろう。我々は、愛想のいい女店員からテーブル席に案内されるや、この店のおすすめは何かねと聞いてみたところ、牛のもつ鍋だというので、それを三人分たのんだ。もしY女が一所だったらさぞ喜ぶだろうに。Y女は牛のもつ鍋が大好物だったから。

それにしてもY女はいったい、どうしてしまったのだろうね。このハイキングにはかねがね大いに楽しみを寄せていたから、まともな状態であれば、かならず参加したはずだ。それが連絡もないというのは、なにか重大な事情が生じているとしか考えられない。まさか、死んでしまったとはいわないまでも、重大な病気にかかって、入院しているのかもしれない。今後三人で努力し、なんとか彼女と連絡をとるようにしよう。そう言って小生は、Y女の電話番号まで教えてもらったほどだ。これまでは、T女を仲立ちにして、熟女の皆さんと意思疎通をしていたのだった。

昼食の時間が遅かったこともあり、また小生は体調不順のせいもあって、ほとんど食欲がわかないばかりか、飲む気にもなれない。そんなわけで、牛肉のもつ鍋のほかはもやしのカラカラ炒めとか、ナスの刺身のようなものを註文したばかりだった。カラカラ炒めというのは、ピリ辛どころではなく、ほんとのカラカラだからだそうだ。そのカラカラもやしで食欲を刺激しようにも、なにせ腹が受け付けられる状態にない。そんな具合で、我々は水ばかり飲みながら、生きの悪い話題に耽溺した次第だった。

小生がここ数日の体調の悪さを告白し、この日は死力を尽くしてハイキングに臨んだと話したところ、熟女たちは何を思ったか、なにしろ、お互い元気のうちが花ですわね、あなたのお話を伺うと、仲のよかったお友達が次々とあの世に先立たれたと言いますし、あなたご自身も、いつあの世に行くかわからないようなおっしゃり方をします。あなたとのお付き合いは楽しいので、この先も末永くお付き合いしたいけれども、寿命には勝てません。もしあなたからご連絡が来ないようになったら、それはもうあきらめるほかありませんね、と殊勝なことを言う。それで小生は、次のように言って、彼女らの心配に応えてやったのだった。

小生は、生きている限りブログを更新しようと思っています、もし小生のブログが突然途絶えたら、それは小生が死んだことのサインだと思ってください。

そう言うと熟女たちは、でも突然なんて、いくらなんでも悲しすぎますわ。事故死ならともかく、死ぬまでには多少の時間が介在するはず、その時間を活用して、この世から去るについて、最後のご挨拶をされるようにしていただきたいわ。そうすれば私たちも心の準備ができますから。

これについて小生は、それでは死ぬまでの間に、最後のご挨拶をブログに乗せるようにいたしましょう。壺齋散人こと引地博信は、このたび他界する仕儀とあいなりました。読者の皆様には生前大変ご愛顧をこうむりました。皆様方のご好意を胸におさめながら、あの世に旅立つことといたします。と。

こんな具合でこの日は、どこかずれたところのある一日となった次第だ。朝から降り続けた雨が、なお止まずに降っていたばかりか、帰宅後眠りについたあとでも、夢のなかで雨の音が鳴り響いて、その音が不吉に聞こえ、あたかもあの世に移行しているかのような錯覚まで持ったのだった。もしかしたら、小生の他界もそう遠い先のことではないのかもしれない。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2012-2018
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